今回は新潟県燕市分水で開催された“分水おいらん道中”に行きましたのでその様子をお届けします。
この行事は1936年に地元の有志の方々が花見客をもてなす為に始まった伝統的な行事です。
花魁とは日本人なら何度か耳にしたことがあると思いますが、詳しく知る機会が少ないかと思います。
そこでこの記事では江戸時代の大衆文化の華である花魁を記事にしました。

花魁は江戸時代に幕府公認の吉原遊郭で働く遊女の中で最も高位に位置付けられた遊女の事ですが、ただの遊女ではなく容姿や教養や芸能(三味線、茶道、書道など)において高い水準を求められた接客のプロフェッショナルと言われており、富裕層や知識人の憧れの的で、誰でもなれる存在ではありませんでした。
また江戸文化や日本の美意識に多大な影響を与えた、現代でいうファッションリーダー的存在でした。

花魁道中は花魁が初めてお客と会う“初合い”の際や特別な接待の時に行われた行事で、まるでパレードの様で豪華な行列は大衆を魅了しました。
花魁道中では役割が決まっていて、先頭から前駆者(先導役)、手古舞(護衛兼飾り役)、禿(花魁に仕える少女)、花魁(主役)、男性従者(荷物持ち)の順で歩きます。
ここまでの写真で写っていたのは前駆者と手古舞ですね。

ここで今回の主役の花魁の登場です。
煌びやかで豪華な衣装に、三枚歯の高下駄で外八文字にゆっくり歩く姿はなかなか観る機会がないので心が躍ります。
実は花魁は誰でも関係を持つ事はできず財力のある地位の高い方しか関係を持つ事ができませんでした。
その上、関係を持つには“三回通い”といって段階を踏み厳格な審査を通らないと親密な関係になれません。
これは花魁の格を守る為にあった制度と言われています。
華々しいイメージの遊女ですが多くの遊女達は元は貧困から身売りされ遊郭にいます。
労働、住居、食事、健康面どれをとっても劣悪な環境で、平均寿命は20代前半とも言われ病死や自ら命を断つ遊女も多くいました。
そんな遊郭から外の世界へ出るには年季明け(借金の返済)、身請け(裕福な男性に買われる)逃亡のいずれか。
身請け後は本当に自由になれるとは限りませんし、それ以前に年季明けまで生きていられるかもわかりません。
苦労して花魁になったとしてもその先の人生は闇
華々しい世界とは裏腹に生活の実態はとても過酷なものでした。

現代では舞台やアートなどで観る花魁は肌の露出が多いものが多いですが、これは官能性や美を現代風に創作したもので、実際の花魁は露出を抑えた“見せない美”を重んじています。
この“見せない美”は日本の女性の美意識に影響を与えていて、控えめで奥ゆかしい色気は現代でも良いとされてます。
時代の背景を知り日本人が持つ特有の意識とは他にもどんなものがあるか深く知っていきたいですね。

分水おいらん道中を見終えた後は長岡市にある蒼紫神社に花見に行きました。

蒼紫神社は関ヶ原の戦いで戦功をあげ徳川幕府から領地を貰い長岡藩を設立した牧野忠成公の息子“牧野忠辰”を主祭神とした神社です。
歴史も深く建物は国指定の文化遺産となっています。
武運や勝運のご利益があるとされる神社なので、勝負事がある方は是非お参りしてみてはいかがでしょうか?

いかがだったでしょうか?
花魁道中を見て自分の刺青にも日本特有の美意識や文化的な要素を取り入れていきたいと思い、今回着物を着た女性を刺青の図案として作画してみました。
和彫に拘らず様々な表現に挑戦していこうと思います。